双六と文学 |
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■短歌に詠まれた「双六」
● 双六・雙六・・・教育社「古今短歌歳時記」(鳥居正博編)より
古くインドに起こるといわれ、唐から伝えられた遊戯。スグロクが古形。双六盤の中央に賽を置く場を設け、左右に12区分したマスに各15の黒白の駒をおいて、賽筒に入れた2個の賽を交互に振り出し、その目の数だけ駒を進め、敵陣に全部進めたら勝ちとする
。盤の大きさは一定せず、競技法にも本双六のほか色々あり、駒数や配列にも差異がある。
古くは「日本書紀(持統3年)に「十二月己酉の朔丙辰(しはすつちのとりのひのえたつのひ)に、双六を禁(いさ)め断(や)む」とあるように禁止されたのは賭博が行われたからである。
「万葉集」に二首見え、最初のは、「一二(ひちふた)・五六三(いつむつみつ)・四(よつ)」と訓む説もある。次のは「心の著く所なき歌」の一首で、わが妻の額に生えている双六の大きな鞍の上にできた腫れ物よ、といった意味のない歌である。
平安時代にも行われ、「枕草子」(140段つれづれなぐさむもの)に、「碁、雙六、物語」があげてあり、「源氏物語」(若菜下)などにも近江の君がすごろくを打つくだりがある。
中世にも双六は行われたが、江戸時代にはすたれて、文化文政(1804〜1829)頃には見られなくなった。かわって「絵双六」が使われ始めた。初めは仏教の教義を教える「仏教双六」、のちに「浄土双六」となり、さらに「道中双六」などに変わっていった。明治以降は子供らの遊びとなった。絵双六は大きな紙に絵を一区画ずつに作り、さいころを振ってその目の数だけ振り出しの出発点から、最終のあがりまで、到着の早さを競った。
古歌例は少なく、「源順(みなもとのしたごう)集」に「双六番のうた」があり、句頭句尾に「す・く・ろ・く・い・ち・ば・」を尻取式に詠みこんでおり、小沢蘆庵も「拾遺集」の歌を最初に掲げ15首をあげているのは、盤上の桝目に宛てたものと想像される。「すぐろく市場」は、語義が明確ではないが、市場は人の集まる盤上を意味したものででもあろうか。
近世句に建部巣兆(そうちょう)の「曽波可理(そばかり)」(1870刊)に、「双六の六部に逢はん宇都の山」があるが、道中双六を詠んだもの。虚子の「五百五十句」(1943刊)に「双六に負けておとないく美しく」もある。俳句季語は新年。近代歌もあろうが、見当たらない。
<万葉集>
一二の目のみにはあらず五六三四さへありけり雙六(すぐろく)の采(さえ)
(万葉集・16・3827) 作者未詳
我妹子(わぎもこ)が額(ぬか)に生(お)ひたる雙六(すぐろく)の牡牛(ことひのうし)の鞍(くら)の上の瘡(かさ)
(万葉集・16・3838) 安倍子(あべのこ)祖父(おじ)
<源 順(みなものとのしたごう)集>
するがなる冨士の煙も春立てば霞とのみぞ見えてたなびく(源順集52)
くさしげみ人もかよはぬ山里にたがうちはらひつくるなはしろ(源順集53)
ろくろにや糸もひくらん引きまゆの白玉のをにぬけとたえぬい(源順集54)
ちりもなきかがみの山にいとどしくよそにてれみれどもあかぬもみぢば(源順集55)
<拾遺集>
雙六(すぐろく)の市場に立てる人妻の逢はでやみなむものにやはあらぬ
(拾遺集・雑恋・1214)よみ人しらず
<六帖詠草・雙六(すぐろく)の歌 /小沢蘆庵(ろあん)>
寿(す)まのうら初瀬の山もへだてなく春の霞はけさやたなび具(く)
具にぐにになだたる所多かれど花は都の春のやまし呂
呂うこくの程もなくのみもりて夜はた手(た)枕のあにあくる夏の似(い)
似(い)ちじるく露置きそめてこの朝明(あさけ)来る秋見ゆる庭のかよひ知
知ぢの秋ひとつの月のゆきかへりかはらじみよをめぐる光波(は)
<声また時/武田弘之>
人ふたり双六あそびを楽しめるありのままなるさまを彫りたり
●すごろく・・・飯塚書店「短歌表現辞典 生活・文化編」(編集部編)より
弟(おと)の児(こ)が小さき手に振る双六の賽よくいでてひとり勝ちつぐ 窪田章一郎
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